6年前、私は札幌市内のオフィスビルにいました。
午後2時46分。
突然揺れはじめた時、いつもとは違う長い長い揺れにフロアは騒然となり、大きな被害が出るほどの震度ではなかったにも関わらず、乗り物に酔うような奇妙な感覚に教われたのです。
エレベーターが止まり、下の階へ避難が必要なのかどうか確認するため、誰かがフロアにあったテレビをつけました。
札幌市内の震度は3。
その時映し出された震源地は北海道ではなく、東日本全体に震度を示す数字が表示されているテレビ局のスタジオの映像を見た時には、まさかこんなことになろうとは誰も思いもしませんでした。
東京のオフィスは高層ビルの上層階にあり、連絡を取ろうとしてもネットワークも寸断されていて、いつも仕事の連絡をしていた相手とのチャットも途切れてしまっていたため、一体今どういう状況なのかを把握することもできなかったのです。
なにかとんでもないことが起こっているのではないか。
そう思うとテレビを見ていた同僚達が悲鳴のような、怒号のような、なんとも言えない声。
なんだろうとテレビの前に移動すると、まるで映画のワンシーンのように、次々と車を飲み込んでいく波の姿が映し出されています。
どう見ても今、現実に起きていることには思えない、必死で車を飲み込み、家のあった場所が海の一部になっている画面はただただ恐怖でしかありません。
その日は子供の小児科通院の予定があったため、午後4時退社し保育園へ向かいました。
子供は当時2歳。
迎えにいった保育園はいつもとなにもかわっていなくて、子供達の賑やかな声が聞こえていました。
保育園の先生とは今日の地震は長かったですねという話はしましたが、テレビの向こうで見た光景のことは知らなかったのでしょう。
先生からの「地震がたいした事がなくてよかったですね」、という言葉にどう返答していいか困ったことを今でも思い出します。
子供を連れて行った小児科ではテレビの放送を見る事はできなかったのですが、その後薬をもらうために入った調剤薬局ではあの津波の画像を繰り返し放送していました。
あれから、今日で6年。
当時2歳だった子供は8歳になりました。
まだかろうじて30代だった私も、45歳になりました。
6年前、これから日本はどうなってしまうのだろうと不安で眠れなかったというのに、今はこの3月11日がくるまで、平和な日常がくるのが当たり前のように感じてしまっています。
あの日を忘れない。
忘れてはならない。