私の父はこどもが産まれる数か月前に亡くなりました。
すい臓がんで、それはあっという間に。
病気がわかってから、たった2か月の命でした。
私の父は子供が好きでたぶん孫が欲しかったのだと思います。でも私達夫婦にいつまでも子供がいないことをとやかくいう人ではありませんでした。
当時妊娠していた私はまだ流産の可能性があったため、父には子供ができたことを伝えることができないまま亡くなってしまいましたが、きっと孫をこの手で抱きたいと心から思っていたに違いありません。
間に合わなかったことが本当に悔やまれます。
私の母は子供が嫌いな人で、子供の泣き声を聞くと頭が痛くなるから孫もいらないというタイプでしたので、私に子供ができたことを報告しても喜ぶでもなくなんでこんな時に、というような答えが返ってきたのをよく覚えています。
他の人からみれば、こんなことを言う母がとっても悪い母親にしか思えないとは思いますが、ただ自分に正直なだけなんだな、と今になればわかります。そしてそんな母を持つ私はそれを受け入れなければならないということも。
父が病気になってから、私の住む家から近くにある総合病院に転院することになりました。まさかその時はがん、しかも予後が見込めないケースが多いすい臓がんだとは思いもしませんでした。
一般的に末期という状態です。
ステージ4b。肝臓にも転移があります。エビデンスから考えると余命半年、ただ余命というものは全く想像がつきません。
それが主治医からの言葉でした。
病気については母と父に告知がありましたが、余命に関しては父には知らせないようお願いしていたので、当時すい臓がんについての知識がなかった父はがんでも職場に復帰している人もたくさんいるし、がんと闘うと誓っていたのです。
父が入院してから朝7時半から8時半までと夜6時半~8時半ころまで、仕事に行く前に必ず病室に立ち寄る生活をしていました。
最初は仕事が絵にに来なくていいといっていたのですが、淋しがり屋の父は私が来るのを楽しみにしているのをわかっていたので、毎日毎日病院と会社と家の往復が続け、急激に状態が悪くなる父のそばに付き添いました。
毎日の数時間、父と話をする貴重な時間。
父が病気になるまで、こんなに父と話をしたことはなかったと思います。
まだ元気なころは昔話やたわいもない話、症状が悪化してからは死生観や人生についての話をたくさんたくさんしました。
父さんにとって、お前が一番の宝物だ。
お前がいたから、お前を一人前に、しあわせにしてやりたくて、どんなにつらい時でも頑張ってこれた。お前がいなかったら父さん、こんなに頑張れなかった。
状態が悪くなってから、父が言った言葉です。
いまでも思い出すと涙がでてきます。病室では泣かないようにしていたのですが、この話のときはどうしても涙を止めることができませんでした。
そして朝、普通に会話を交わしていた父は急に錯乱状態になり、薬で眠ったまま夕方には息をひきとりました。
私が宝物だと言ってくれた言葉と、子供を幸せにするためなら頑張れたという父の言葉が、今までの私のギリギリの状況を救ってくれていると思います。
この言葉がなかったら、私は産後鬱の中の子育てにくじけていたかもしれません。
父は自分の死を前にした言葉でで私を救ってくれたのです。